西遊草を読もう。


安政二年正月下旬。三河町に開いた塾が開塾三ヶ月にして焼失したため、清河八郎はとりあえず実家に帰ることにした。26歳のときだった。

家に戻ると、母親の亀代とともに伊勢詣での旅に出ることになり、下男の貞吉と連れだって3月20日、清川を出立した。

「伊勢詣で」は道を越後にとり、北国街道を通り、善光寺に詣で木曽道を行き、女人禁制の福島の関を避けて途中伊那谷から大平街道を使い、中山道、追分、伊勢街道に至り名古屋に出る。 その後は母・亀代の気のむくままに奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の名松を見たり、岡山から四国に渡って讃岐の金毘羅に詣でたり。田度津から船をチャーターして瀬戸内海クルージング、宮島を回って周防錦帯橋を渡って岐路につく。
 
 帰路も沢山お祭を見たり、お土産を買ったりして江戸に入ったのが7月12日。再会した八郎の友達がまた塾を再開してはどうかと言ってくれる。

 母・亀代はそんなやり取りを見ているうちに八郎を応援する気になり、塾再開を促す。それで薬研掘に売り家を見つけて早速、手付け金を払い、8月23日江戸出立。実家へは安積五郎も一緒に行くことになる。9月10日ようやく清川に帰った。

 この170日に及ぶ旅行のあいだ、毎日書き続けた旅の記録が西遊草である。

 これは母が老後の楽しみに読むようにとしたためたもので、全11巻8冊に及ぶ。母親に読んでもらうのが目的なので、文章は易しく、毎日の面白かったことなどがたくさん書かれている。

清河の人柄が伺えるものなので是非読んでみてください。


現在入手できる「西遊草」

東洋文庫「西遊草」…清河八郎研究の第一人者小山津勝一郎さんの読み下し文になっていて読みやすい。少し省略されている。

岩波文庫[西遊草」…原文掲載。難しい語句は別註がついている。古文の教科書のようです。

 
西遊草の原書は山形県の「清河八郎記念館」で見ることができる