清河八郎(斎藤正明)

きよかわ はちろう(さいとう まさあき)



 斎藤家の歴史 斎藤家跡

 斎藤家は嘉永六年に大庄屋格十一人扶持となり、一代御流頂戴格・御郡代支配人でした。斎藤家の田地は、村内には30石だけでしたが、隣接の立谷沢村に100石、狩川村とその付近に400石ありました。

 酒井家が14万石庄内藩主として封ぜられた頃から醸酒を業として、当主は代々治兵衛と称していました。
 
 斎藤家は小さな酒造家でしたが、灘地方の酒造家は原料米の仕入れが経費の65%であるのに対し、斎藤家では自家保存米を使うために生産経費が安く上がり、卸売りはしないで小売専門だったので、容器代はかからず、運送賃もかかりませんでした。それゆえ斎藤家の利益は計り知れないと言われ、酒造石高は500石、当時庄内の酒屋では最大のものでした。


 文化・文政の頃から嘉永・安政にかけて、最上川回船の繁栄にともない、清河駅はまるで市のように賑わっていました。斎藤家の門前は酒を求める者が明け方から暮まで群がり、店の者が休む間もない程だったといいます。

 そのほか、立谷川から取れる砂金も収入源のひとつでした。

 生まれと家族

 清河八郎は天保元年(西暦1830年)十月十日出羽國東田川郡清川村に生まれました。
名は正明(まさあき)、号は芻蕘(すうじょう)、幼名元司といい、長じて清河八郎と改名しました。潜行の時、変名を大谷雄蔵、日下部達三。国事奔走中、最も士気高揚の折は震と名乗っていたようです。

父は清川村の素封家、斎藤治兵衛豪寿。母は鶴岡三井氏の第三子、亀代。兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代、家がありました。

 父と祖父

斎藤治兵衛雷山父治兵衛は書画、骨董、刀剣にも見識の高い教養人で、俳号は雷山といいました。

 また八郎の祖父昌義は神仏を崇拝すること厚く、文雅の人で号を寿楽といい、孫の教育に熱心でした。昌義は孫の元司が遊ぶのを見て、「この子、大芳を遺さずんば必ず大臭を遺さん」と孫の逸材を見抜いたといいます。

 子供の頃の話

天保四年に大飢饉があり、清川村も天候不順、最上川の大洪水などに見まわれ大凶作となりました。しかし、庄内藩は年貢米を厳しく取り立てたので村人は生活困窮に陥っていました。あるとき、斎藤家の蔵に16人の若者が押し入り、預かり米を盗むという事件があり、事件の当日、三歳の八郎が蔵の酒造用大釜の後ろに隠れて16人の行動を見ていて、これを家人に話したことで押し入った者全員が逮捕さるということがありました。

 父治兵衛は助命嘆願書を添えて藩に申し出たところ、15人の若者は嘆願も虚しく皆鶴岡の刑場で斬首され、1名が追放となりました。
 村人は満三歳の幼童の明敏さと胆力に驚いたといいます。しかし一方、村の窮地を救おうとした16名の若者を悼み、密かに八郎を非難する声もあったようです。

 学びと剣の修行時代

 七歳のとき父より孝教の素読を受け、十歳のとき母の実家のある鶴岡で伊藤鴨蔵から学問を、清水郡治に書を学びましたが、悪戯がひどくついに塾を追われたほどの悪童だったようです。天保十四年三月、十四歳のとき清川関所役人の畑田安右衛門に師事、論語、孟子、易経、詩経、文遷にも及びました。

 弘化三年五月、父雷山を訪ねてきた藤本鉄石(当時三十歳)に会い、当時十七歳だった八郎は鉄石の影響で江戸遊学の志に燃えていました。

 剣は十七歳のとき、酒田の伊藤弥藤治に手ほどきを受けました。

 江戸遊学時代

 遊学許可を得て江戸に入り、江戸古学派の東条一堂に師事、桃井儀八、那珂悟楼とともに東条一堂門の三傑に数えられました。嘉永四年東条塾塾頭に望まれますが、昌平坂学問所を志し安積艮斎塾に移ります。

 剣は嘉永四年二月、東条塾に隣接していた千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門、翌年二月に「北辰一刀流兵法箇条目録」を受け、万延元年八月二四日、三十一歳で免許を受けました。

 諸国漫遊と京遊学

 嘉永元年、十九歳のとき叔父の弥兵衛らと関西へ漫遊。大阪から広島、岩国、四国、京をめぐる約四ヶ月もの長旅でした。その年弟の熊次郎が病死し、実家に戻りますが、翌々年三年間の京都遊学の許可を得て上洛、梁川星巌に師事し、思い立って九州を目指します。小倉、福岡、大宰府、佐賀、諫早、長崎、熊本、日田、日出をまわり、名のある文人学者があれば訪ねるという、二ヶ月あまりの旅行でした。その後母を伴って北越、伊勢を巡り、安政二年、紀行文「西遊草」を著します。

 虎尾の会結成攘夷運動

 安政元年江戸三河町にを開き、このとき清河八郎と改名しました。これより先、八郎は尊皇攘夷の志を抱き、塾の名声も次第に高まっていき、交友関係も広くなります。

 万延元年、山岡鉄太郎、益満休之助、本間精一郎らと虎尾の会を結成。同志伊牟田尚平らがヒュースケンを暗殺し、ついに幕吏の注視するところとなってしまいます。

 文久元年水戸天党が常総の間に横行し、金穀を募り、特に横浜の外国人を襲撃する風聞を聴くと直ちに赴いて行動を探り、天狗党が烏合の衆であることに落胆、宮本茶村と時事を論じ、時季の至るのを待っていました。しかし、江戸に戻ったとき幕吏の罠にかかり幕吏に追われる身となり、仙台に潜居しました。(そのとき蓮と結婚したようです)

 そこで八郎は同志伊牟田尚平より「水戸藩士が十一月を期して蹶起し、上洛して天皇を奉じて天下に号令しようとしている。尚平は薩摩に下って同志を糾合して上京し、応援するつもりである」と聞かされます。八郎はこれを良策とせず、それより閣老安藤対馬守による廃帝の動きを止めるために速やかに上洛して、田中河内介(中山忠能の侍読)に頼って密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同志を募って勤皇の詔を奉じて挙兵する策を押します。

 上洛と九州遊説

 そして文久元年十月、八郎は同志安積五郎、伊牟田尚平とともに上洛し、中山忠能の長子忠愛より志士に送る書簡を預かり九州遊説につきます。中山忠愛は当時相国寺桂芳院に蟄居していた青蓮院宮の令旨を示して全国の志士を募り、動かそうとしていました。
八郎は西国を遊説し、真木和泉、村松大成、川上彦斎などと会談し、今後の方略を議しました。

 寺田屋騒動を遁れる

 九州遊説を終えた清河八郎はいよいよ義挙を決行するべく着々と準備を進め、薩摩藩主島津久光の上洛を待ちます。しかし西国の諸藩主は過激志士の動きを警戒し、薩摩藩主島津久光は時局の紛糾を鎮めるため長州、肥後、筑前の形勢を探索するよう西郷吉之助に命じ、下関で待つように命令していました。

 西郷は下関で白石正一郎と会談し、事の急なるを知って急ぎ上京し、激派志士を鎮撫しようとします。結果久光の命令無視となり、西郷は島流しとなってしまいました。

 明けて文久二年久光は上洛し、過激志士鎮撫にあたります。久光の上京に望みをかけていた志士たちは落胆し、志士の間でも硬軟両派の意見対立をおこしてしまいます。久光が他藩の志士に坂地に留まるように命じたとき田中河内介、小川一敏はそれに服し、清河八郎は田中の態度を嫌って薩摩藩邸を出てしまいます。一方薩摩藩士の有馬新七、田中謙介、柴山愛次郎などは田中河内介、小川一敏と義し、事を挙げることに決します。
 しかし薩摩藩の厳重な監視の眼を遁れられず寺田屋の変が起こり、計画は中止されました。

 急務三策と浪士組結成

 その後再三勅使が江戸に下り、将軍上洛の上、公武一和の儀が進展しました。文久三年二月十三日、将軍家茂は上洛の途につき、三月四日入京しました。将軍上洛の目的は公武合体派の雄藩・公家が蓮繋して長州藩の尊皇攘夷派および三条実美以下少壮公家の暗躍を封じることでしたが、京の治安は乱れ、形成は必ずしも幕府の有利な展開にはなりせんでした。

 先に幕府は将軍上洛に際して浪士組を結成し、上洛させて京の治安を保たしめようとしました。その浪士組を支配したのが清河八郎でした。

 志士決起計画が頓挫した後、清河八郎は虎尾の会同志の山岡鉄太郎や土佐藩の士間崎哲馬の伝をたより、時の政治総裁職松平春嶽に宛てて急務三策を奉じました。これは「一に大赦、二に攘夷、三に人材登用」を説いたものでした。当時江戸でも浪士の横行は酷い状態にあり、清河八郎の策は浪士懐柔統制にも有効であったため、早速取り上げられることになりました。晴れて自由の身になった八郎は幕府の命により集められた浪士とともに上洛し、二月十三日一行は入京しました。

 清河八郎敗れる

 翌日八郎は浪士一同に浪士組の目的は朝廷の守衛とと攘夷遂行にあると宣言します。学習院に書を奉り、尊皇攘夷の赤心を陳じます。まもなく学習院国事掛から勅諚を賜り、八郎の行動に驚いた幕府は浪士組預役の山岡鉄太郎、鵜殿鳩翁に命じて八郎以下浪士組二百名余りを帰府させました。江戸に戻った清河八郎は依然として攘夷先鋒を名として府内で活動していたので、四月十三日、浪士取締役並出役佐々木只三郎によって暗殺されました



 清河八郎は武家の出ではなく豪農の子として生まれ、有力諸藩の志士のように、彼の背後にあって庇護する者もなく、孤節を守って信ずるところに邁進しました。生来の豪毅不撓の気質が常に自ら一流の人間であることを任じ、走り続けました。時あるごとに諸国を漫遊し、天下の形成や風俗、人情を観察し、彼の初心である尊皇攘夷に徹したのです。
その交友関係の広さ、巡行の足跡は全国に及んでいます。彼の旅行記である西遊草は彼の母と同行の旅の記録です。八郎は西国視察のカモフラージュのために母親を同行させたともいわれていますが、その記録の端々にうかがわせる彼本来の優しさがなんとも言えない魅力となっています。

潜中始末の冒頭に

正明卑賎を顧ず頗る夷狄の縦横せるを患となし、必ず懲に戒めん事を志かけしも、
一臀の力及ぶ所にあらざれば、専ら文武豪傑の士を結び、期会の至るをぞ待あるに、
官の夷狄を守るおごそかにして、天下有志の士も只もの一片の怒を漏すのみにして
身を殺し国家の益することもなかりける


とは清河八郎の人柄をよく表しているようです。

資料:清清河八郎遺著、幕末の奇傑清川八郎、勤王唱始清川八郎、清河八郎/大川周明著・文録社刊、清河八郎/小山松勝一郎著・新人物往来社刊、グラフィティ清河八郎/清河八郎記念館刊 (2008年5月9日 改稿藤誠)