芹澤 鴨(芹澤 光幹)
せりざわ かも(せりざわ みつもと)
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水戸烈公と芹沢家 芹澤家は足利将軍家時代の武将、常陸大掾一族芹澤氏の後裔で、永々郷士上席の家柄です。芹沢村一帯は室町時代に二十六代当主芹澤俊幹が築城した朝日城(芹沢城)の城跡で、芹澤家は代々城跡別邸に住んでいました。 芹澤家の家紋は平家の紋所「揚羽蝶」でしたが、子孫の芹沢雄二氏が発行した『芹澤家の歴史』によると、江戸時代初期、当主の芹澤通幹は大阪夏の陣の折に徳川家康の麾下となり、医薬・医術によって家康の勝利に寄与し、その功をねぎらわれ、金扇と陣餅七つを与えられたことを記念し、「七本骨の扇に七星」に改めたのだといます。 その後芹澤家は長男の通幹が継ぎ、次男は水戸藩に引き立てられて藩士となり、水戸光圀のとき二百石を得て水戸に住んだということです。 天保五年三月十七日、水戸烈公が内巡見の折に芹澤家に立ち寄り、御持鞭、菓子及び金子が下賜されました。烈公はその夜、扇面に歌一首を詠まれました。現在芹沢城跡にその一首を刻んだ碑が残っています。 芹沢村の蛙を聞きて 夕ぐれはおのが時とてかへす田に三つ四つ二つ蛙鳴く声 また天保十五年三月二十二日、烈公の千波原の調練では、鴨の父、貞幹が山辺主水正に従って輜重に従事しました。この時貞幹は主君の水戸斉昭公より烏帽子が送られ、ねぎらいの酒食のもてなしを受けたといいます。またこの調練には芹澤家家臣の平間重助も参加していました。 生い立ちと家族 芹沢鴨は茨城県行方郡玉造町大字芹沢字御殿に生まれました。鴨の出生年は三説あります。 京都上洛時の記録によれば天保三年、千葉弥一郎筆記の「上京有志姓名録」(文久三亥年二月八日、公爵毛利家文庫所蔵記)にによると「水戸 芹沢鴨 三四」と書き留められているので天保元年。潮来郷校に学んだことや、剣の手ほどきを神道無念流の戸ケ崎熊太郎から受けたという説を併せ考え、さらに彼の息子(後述)が明治十五年一月の没時に三十八歳であることから逆算すると、文政九年が正解のような気がします。 鴨の名は光幹(みつもと)といいました。幼名は竜壽(たつとし)であるといわれていましたが、芹澤家の過去帳、成幹の子・外記の書き残しにより「玄太」であることが分かりました。因みに「竜壽」は成幹の子で夭折しています。 父の芹澤幹基は熱心な尊王攘夷派でした。兄弟は長兄の興幹、次兄の成幹、姉の多気があって、鴨は三男末っ子です。次兄は窪合氏の養子に出されていましたが、長兄が子のないまま亡くなったため、官許の上、引き戻して家督を継がせました。姉の多気は室町氏に嫁したということです。 家業の医薬と兄多気二郎成幹 芹澤家は家伝の傷薬で名を成し、全国の武将がこれを寵用したので、幕末でも裕福でした。次兄多気二郎成幹は医学に長じ、この家伝薬を用いて金瘡銃瘡を治療し、幕府棚倉侯よりしばしば賞を賜りました。 元治元年七月、京都蛤御門の変のとき、成幹は幕府の命令で戦傷者の治療に当たりました。会津容保侯の藩医鈴木省三が治癒の早さに感服し、入門伝授を願い出ましたが、一子相伝の故を以って固辞。しかし省三が官に訴えて更に伝授を願ったため、やむを得ずこれを許し、傷薬である黒薬千帳、打撲傷薬の赤薬二百帳、筋渡薬神伝散七百帳を送ったところ会津侯はことのほか喜ばれ、家臣野村佐兵衛、小野権之丞に命じ、水府官に謝意を表して金三百疋を送ったということです。 しかしこの次兄多気二郎成幹(別名・芹沢兵部)は武田耕雲斎に師事して天狗党を支援し、長州征伐には監察戸田五助から芹沢村に出た従軍令に従わなかったので、諸生派の撃昂するところとなって水戸牢に投獄されて、慶応二年七月十二日、病をもって獄死してしまいました。五十三歳でした。法号は「瑞光院法山成幹居士」。 延方郷校と天狗組 鴨は潮来学校(延方郷校)で水戸学と尊王攘夷思想を学んだといわれています。潮来学校(延方郷校)は文化三年の創立で、主に医学を教える学問所でした。鴨の家では薬を扱っていたので、兄弟揃ってここで医学を学んだと思われます。 郷校には水府から武田耕雲斎などの学者が水戸学の講義に廻っていました。水戸から離れた場所にある郷校では、幕府や水府の目を気にすることなく、より自由な討論が交わされていました。また、水府からは武道の師範役も廻ってきました。 そして後にこの郷校(文武館)出身の若者達が集まり尊皇攘夷派組織「天狗組」が結成されました。玉造・小川地区は藤田小四郎が頭領となっており、これが天狗党の前身と言われています。鴨は藤田小四郎とも交流があり、天狗組の資金集めを担当していたと言われています。 神道無念流と撃剣館 剣は戸ケ崎熊太郎の神道無念流を学びました。直接習ったのは木村定二郎友義からといいます。 定二郎友義は二代目熊太郎胤芳の高弟で三代目熊太郎芳栄の師でもありました。ちなみに熊太郎芳栄は十七歳で奥義に達し、三代目熊太郎を襲名、弘化四年に水戸藩に五十人扶持で仕え、水戸弘道館の師範役となっています。郷校には弘道館から師範を招いていたので、鴨もそのとき修めたものと思われます。 釣洋一氏の研究で「戸ケ崎熊太郎の高弟岡田十松から」というものがありますが、十松吉利は鴨が生まれる前に没しているし、利貞は吉利が没してまもなく開かれた斉藤弥九郎の練兵館に師範代として住み込んでいるので、もし撃剣館で修めたのであれば二代目岡田十松利貞の弟の三代目岡田十松利章に師事したということになります。江戸に出てきてから撃剣館で本格的に修めたのかも知れません。 因みに永倉新八は神道無念流を撃剣館に学んだと言っていますから鴨が撃剣館で修めたとすれば新八の兄弟子ということになります。 神道無念流の他に元心流(源心流?)の居合も修め、免許皆伝を得て、神田小川町に芹沢道場を開いたといわれています。浪士組結成時の名簿に「下村継次門人・平間重助」と書かれているので平間は鴨から剣術指南を受けたようです。当時平間は芹澤家の近くに住んでおり、水戸から出たことが無いようなので地元で習った可能性が高いです。 神官・下村嗣次時代 鴨は常陸松井村の神官、下村義儔(祐齋)の長女・能部の婿として養子に入りました。下村家は代々豪農で郷医だったので、潮来学校で医術を納めた芹澤家の兄弟ならば、ということになったのでしょう。また、当時水戸藩では藩主斉昭が医学と神道を奨励していたので、神職に携わる下村家への養子入りは芹澤家としても良縁だったと考えられます。下村家に入った鴨は「下村嗣次」と名乗りました。 下村祐齋が神官を勤めた神社は松井鎮守の丞殿神社と、磯原にある天妃山弟橘媛神社でした。嗣次は祐齋の後を継ぎ、二代目の神官となりました。天妃山弟橘媛神社の近くには漢学者野口正安の家があり、嗣次は正安の影響で水戸尊攘派「玉造勢」の頭となり、300名の部下を率いいたといいます。 近藤勇の書簡には水府脱藩下村嗣次改め芹沢鴨と書いてあり、下村家に養子入りしていた鴨が妻との死別を機に勤皇活動の為に下村家を離縁した、と見るのが有力です。詳細は水戸漫遊記をご覧ください。 鴨は短慮一徹な性格で尊王攘夷の実践に加熱しすぎることが多く、敬神の念が強い天狗党では失敗も多かったようです。 潮来の宿で天狗党の資金集めが悪いといって怒りだし、地元の名主を鉄扇で殴り怪我を負わせたという記録も見られます。また新徴組生き残りの草野剛三の語りのこしによると、「芹沢鴨と新見錦は東禅寺事件に関係して、そのため水戸で捕らえられ入牢していた」ともいいますが、鴨は長岡事件に関わって捕らえらました。いずれ死罪になることを覚悟して絶食し、小指を切って鮮血で辞世も記しました。 雪霜に色よく花の咲きかけて散りても後に匂ふ梅が香 鴨の豪胆な気質の中に意外なほどの繊細さを垣間見せています。 浪士組参加 文久二年八月、清河八郎は「一に攘夷、二に大赦、三に天下の人材登用」をうたった「急務三策」を政治総裁職松平春嶽に献じていました。この策の恩と天狗党武田耕雲斎の助命嘆願が聞き入れられたものか、鴨は釈放されて故郷に戻りました。しかし、まもなく天狗党除名となります。 藤田小四郎の依頼で天狗党の資金作りに奔走し、俵屋孫兵衛から融通を受けてその約束を果たしたにもかかわらず、天狗党幹部登竜門から外されて不満を抱き、袂を分ったともいわれています。 そうして文久三年二月江戸に出た鴨は天狗党時代からの仲間である平間重助、新見錦らと共に幕府が募集を掛けた「新徴浪士組」に参加します。 資料:水戸幕末風雲録、水戸藩末史料、水戸見聞実記、清河八郎遺著、芹澤家の歴史、新選組誠史/釣洋一著・新人物往来社 新選組史料集/新人物往来社 (2008年5月9日改稿 藤誠) |