京都(その1)

平成十一年 春

ゴールデンウイークを利用して京都へ行く。正月に来たばかりだが今回の目当ては霊山歴史博物館での新選組特別展示と木村幸比古氏の新選組戦場日記に関する特別講演を聴くため。 京都二条城前のホテルに宿泊。お部屋から御城が見えるかと思ったら、御城が見えるのは「スイートキャッスルルーム」オンリーだった!
翠紅館跡

翠紅館…霊山護国神社から坂を少し下ったところ
幕末の頃西本願寺の別邸で翠紅館と呼ばれる屋敷があり、志士たちの会合の場所となっていた。
文久三年正月二十七日には土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、同年六月十七日には長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で攘夷の具体的な方法が検討された。
世にこれを翠紅館会議という。
同年八月十三日には孝明天皇の大和行幸の勅書が出されて攘夷運動は頂点に達したが、八月十八日に政変が起こって攘夷派は失脚。
代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷を加えていった。
料亭「京大和」の中に建物が現存している。
二条城
二条城大手門


二条城二の丸御殿


唐門

二条城…地下鉄東西線二条城前下車
十四代将軍家茂は第一回目は文久三年三月四日に入城した。芹沢鴨をはじめ壬生浪士組の面々は同年四月十五日、大阪に下る将軍を警護することを会津藩に願い出て許される。このときは既に阿比留栄三郎は病死していたので、隊員は僅か15名にすぎなかったが、急ごしらえで誂えた揃いの隊服に身を包み、注目を浴びた。
十五代将軍慶喜が二条城を後にするのは慶応三年十二月十二日の日没すぎ。徒歩で裏門から出て大宮通り、神泉苑の東通を南行して三条通を西へ、千本通から鳥羽街道へ出て淀に至り、翌十三日七つころ大阪城に入った。 
二の丸御殿の中が見学でき、大政奉還を決めた大広間にはお人形が置かれている。
うぐいす張りの廊下が楽しい。
外の売店では記念メダルを売っていて、日付と名前が刻印できる。1864.kamo serizawa とかにすると楽しいのでやってみよう!
連絡用の釣鐘

釣鐘…二条城内。入ってすぐのところ
幕末の政変の時期、二条城と北側の京都所司代とに設置して双方の連絡用に使われた。二条城では東北隅の丑寅やぐら跡に所司代の千本屋敷から移築した火の見櫓に鐘楼も建てて鐘を設置した。鳥羽伏見の開戦など非常次の連絡を告げ、住民にも知らせるため鳴らされた。
島原界隈
島原大門



島原大門…JR山陰線丹波口駅の近く
安政二年六月、ちょうど祇園祭の頃に清河八郎は母親と一緒に京都を訪れた。彼の旅行記である西遊草」にそのときの模様が詳しく書かれている。
「島原は京都第一の繁華な場所であったが昨年の火事で出口一帯殆ど焼失世上不景気で普請できず祇園町に仮宅を作ってこの島原には人がいないくらい。見物人は来るが遊興の客はなく、遊興は祇園新地、二条新地ばかりが賑わっている」。この門は慶応三年に建てかえられた当時のままのもの。島原は入り口を「出口」という。反対側の千本通西門のあたりでは慶喜さんの腹心の部下・平岡円四郎さんが殺害された。元治元年六月十六日のことだった。
角屋

角屋…大門をくぐってまっすぐ50メートルくらいのところを左折すぐ
もてなしの美術館見学は電話で予約が必要
文久三年八月十四日、この角屋で大宴会が開かれた。事は水口藩の公用方が会津藩の公用方に新選組の隊士の行状が良くないことを申しこんだことにはじまった。芹沢鴨が水口藩の公用方を呼び出し詫び状を書かせたところが、水口藩の仲裁人で戸田栄之助というのがやって来てあの詫び状を返して欲しいと言って来た。それで鴨さんは返してやり、その日水口藩の接待でこの角屋で宴会が開かれることになったのだ。時間になったので角屋へ行ってみると永倉新八が入り口のところにぽつんと立っているのでどうしたんだと聞いてみるとそんな宴会の予定は入っていないと追い出されたという。水口藩の名前で申しこんであったので招待されたのが新選組と分からなかったらしい。ここの主、角屋徳右衛門と鴨さんはめちゃくちゃ仲が悪かったので意地悪されたと思った鴨さんはむかむかしていた。宴会中注意深く見てみると皆余所の店から呼んだ仲居ばかりで角屋の仲居が一人も居ないではないか!
鴨さんはキレた。愛用の三百匁の鉄扇で手当たり次第にものを壊し、掛け軸を破り、主に七日間の営業停止を申しつけて帰った。
(どこまでが本当かは知らないが…)
おかげで以降新選組は角屋でちゃんともてなしてもらえるようになった。怪我の功名?
また、角屋は久坂玄瑞や西郷隆盛などが豪商を招いては軍資金調達のための接待を行っていたらしい。
輪違屋

輪違屋…大門をくぐってまっすぐ30メートルくらいのところを右折すぐ
平間重助は輪違屋お抱えの糸里という芸妓と馴染みだった。文久三年九月十八日、八木邸で遭難したとき、平間は糸里とともに虎口を脱している。
近藤勇も輪違屋を贔屓にしていて、お抱えの御幸太夫を落籍せた。その費用が足りないといって、隊士河合耆三郎は切腹させられちゃった。
ここの2階の傘の間というのが有名だが一般・非公開。大傘を貼った襖のデザインらしい。
新選組記念館

壬生寺の前をまっすぐ五条方面へ向かって坊城通りの丹波口駅前
ここの館長さんはボランティアで新選組史跡案内なんかをやってらっしゃるそうだ。
私が行った時には伊東甲子太郎暗殺や坂本竜馬暗殺についての興味深い説を賜った。ただし話は半分に聞かないといけません。(失礼!)
角屋に幽霊が出るという話をして角屋と裁判になってる歴史家の先生の話とか、新八の手記発見で一躍有名になった多田敏捷さんのこととか話してくれました。何でもありで非常に面白いところ。周辺の史跡の地図がもらえる。重宝。
壬生寺界隈
四条坊城界隈
左側が壬生寺の塀。地元の方に聞いた話では、右側のちょうど写真のあたりに新選組の道場があったらしい。
旧神先家

旧神崎家(カフェ・ド・武家屋敷)…壬生寺の真向かい
文政三年当時の武家住宅風の上層民家をそのまま利用し「カフェ・ド武家屋敷」という喫茶店になっている。自家製ケーキと珈琲が凄く美味しい。

御屋敷だけ見学もできる。ちょうど御節句だったので鍾馗さんの御人形が飾られていた。建物の写真の冠木門と母屋が京都の有形文化財に指定されている。文久三年二月、京に到着した新徴浪士組は壬生寺付近の郷士の家に分宿した。おそらくこの神先家にも浪士たちが泊まったことだろう。
新徳寺



新徳寺…カフェド武家屋敷の隣
尊皇攘夷派の相次ぐテロに困惑した幕府が清河八郎の策を採用して集められたのが新徴浪士組、総勢234名。文久三年二月十三日、一行は将軍家茂上洛の先発隊として七組に分かれて入洛した。
新徳寺が本部で、取締役付は南部亀次郎方に宿泊し、そのほかは寺宿田辺吉郎方に21名、井手友三郎方に43名、八木源之丞方に13名、前川荘司方には幕府役人が泊まった。取締役には幕臣の鵜殿鳩翁長鋭が就いていたが、裏で組織の実権を握っていたのは清河八郎だった。
その夜清河は主だった者を本部に集め、この度の上洛の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷であると演説。攘夷の志を示した建白書を読み上げ、ただちに学習院に提出された。学習院はかねてより尊皇攘夷運動の政治所となっていたので建白書は受理され、「夷狄掃攘のため忠義を果たせ」との勅諚を得る。
しかし、この清河の派手な行動に驚いた幕府は、生麦事件の報復に来航するイギリス軍に備えるという口実を用いて清河率いる浪士組を江戸におびき寄せ、清河を処分してしまう…。
新徳寺は元旦だけ一般参拝を受けつけていて、普段はごらんのように閉められていて敷地内には入れない。
壬生寺
表門

壬生寺…市バス四条坊城下車すぐ
(写真は反対側の五条から歩いて来たところ)
律宗の大本山で宝憧三昧寺、または心浄光院と号し、本尊として地蔵菩薩を安置している。創建は奈良時代の正暦二年三井寺の快賢僧都により復興され、小三井寺と呼ばれていた。その後火災により焼失したが正元元年(1259年)平政平により再興され正安二年(1300年)円覚上人が仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生大仏狂言を創始し大いに栄えた。

壬生塚


局中法度の碑


碑の裏側

壬生塚…壬生寺境内
壬生寺の境内から小池を挟み、ちょっと離れた感じである。
絵馬が沢山掛けてあったり、新選組ファンノートが衣装ケースいっぱいに入っており、傍らのベンチに腰掛けて読み耽る若者あり。墓ノートは賛否両論あるが、お墓の彼等はそうやって人がいつも集まってくれたほうが、だーれも居なくて寂れているより嬉しいと思う。最近はノートが雨に濡れて「がびがび」にになっちゃったのとか、だいぶ捨てられたらしい。すっかり憩いの場になっているけれど、鴨ノートはあるんだろうか…良くわからないのが絵馬に貼りつけられた土方歳三のコスプレ写真。
(ここは鴨さんのお墓なんだからね!「土方さんラブ」とか書いてんじゃねえぞ!)
最近は歌碑ができて100円入れると三橋美智也氏による歌が1曲分しっかり流れるそうな。まあ、おにぎやかで鴨さんも喜んでいるにちがいない。
近藤勇の胸像
これと同じのが龍源寺と小島資料館にもある。トミーズ雅に似ているという噂(笑)。近藤勇の遺髪が収められているとか。
芹沢鴨、平山五郎の墓
芹沢鴨の葬儀は壬生寺で行われた。徳川幕府は仏式以外の葬儀は認めなかったが、幕末になると水戸藩徳川斉昭公の鹿島神宮崇拝の影響で神式の葬儀が行われるようになって、ハウツー本も出回っていた(これは神道とはまたちょっと違う「自葬祭」という方式なんだそうだ)。近藤勇は水戸出身の芹沢鴨に敬意を払い、神式で葬儀を行ったらしい。埋葬の様子は子母澤寛の新選組異聞に書かれている。平山さんと頭をつき合わせる感じで南北に向かって埋葬されたとか。壬生寺では困ったけどなんとか承知してくれたのだろう。その後新選組の隊士はみんなここに埋葬されたが、隊の調練で大砲撃ったりして壬生寺と折り合いが悪くなってからは光縁寺の方に埋葬させてもらうようになったんだそうだ。
隊士の墓
阿比留栄三郎が阿比原栄三良と書かれている。原の字を「る」と読むのは肥後あたりということで肥後出身の隊士の揮毫と言われている。田中伊織と新見錦は別人とも。品行が悪いので切腹させようと話していたら、料亭山緒で別のトラブルを起こし、切腹させられてしまったという。遺体は長州藩が引き取ったらしい(霊山にお墓がある)。それで体裁を整えるのに田中名義で墓をつくったのかな?
側面の漢詩は山南さんの作ではないかという話もある。
八木邸
 
八木邸…壬生寺のとなり
入洛した浪士組のうち、鴨さんたち13名がここに入った。浪士組東下後は六畳と八畳の二間を使って生活していたらしい。八木家の人達と鴨さんたちは案外仲良く暮らしていたそうだ。ちょうど公開中で、鴨さんが暗殺された部屋などが見学できた。八木さんの家は鶴屋というお菓子屋さんを営んでいて、誠最中や屯所餅などの新選組縁のお菓子が買える。
前川邸

奥のほうに古高を拷問したという倉があるんですが…

正面玄関

前川邸…八木邸のお向かい
出窓は一時取り払われていたこともあったけれど、またつけたんだって。
この道をずずーっと歩いていくと光縁寺の方に行ける。

京都編

まだまだ続きます〜