関東編トップへ戻る

遊撃隊縁の房総陣屋めぐり(1)
平成12年8月25日


藤誠は内房の富津に住んでいるのですが地元の史跡には滅法弱く、ある日、本屋さんで房総の城下町のガイドブックを買ってみたら、家のすぐ近くになんと名門・保科家の陣屋があることを発見!しかもこの付近の諸藩には、かの伊庭八郎&人見勝太郎率いる遊撃隊が援軍を求めてやってきたというではありませんか!(気がつくの遅すぎ)
せっかく夏休みだし、ちょろっと行ってみようかと回ったのが今回の史跡巡りです。

参考・「イラストマップで歩く房総の城下町45」
さいとうはるき著・崙書房(ろんしょぼう)
木更津・請西藩陣屋付近
幕末の藩主→林昌之助忠祟
請西藩は文政八年(1825)に林忠英(はやしただふさ)が一万石で貝渕に陣屋を置き、貝渕藩が成立したのにはじまる。嘉永三年(1850)忠旭(ただあきら)のときに請西に真武根陣屋を置き、請西藩となった。林氏は代々、将軍家の正月料理に使う兎を献上していて、深い結びつきがあるそうだ。

さて、慶応3年(1867)、京都で伏見奉行の職にあった林忠交(ただかた)が病死し、19歳の忠祟(ただたか)が藩主となった。

そのとき戊辰戦争がおこり、忠祟は旧幕府遊撃隊の伊庭八郎・人見勝太郎の両名と手を結ぶ。そして慶応四年(1868)閏四月三日、徳川家再興を掲げ自ら脱藩。藩兵70名と遊撃隊36名を率い、総督として官軍に立ち向かった。
箱根・奥州と転戦したが九月二十日ついに仙台で降伏。全国でただひとつ請西藩は取り潰しとなった。

十月に東京へ護送された忠祟は肥前国唐津藩主・小笠原長国邸に預けられ禁固の身となる。明治五年禁固を解かれ、請西に戻って帰農。明治二十七年に華族の礼遇を受け、昭和十六年93歳にて永眠。


貝渕陣屋跡に建つ石碑。
あたりは住宅街になっている。
かつての貝渕藩陣屋跡で、
請西藩となった後も出先の役所や倉庫として使われていた。
土塁の跡が残っているらしいのだが、
よくわからなかった。


国道16号線から見る真武根陣屋のあたり。
樹の茂っているあたりがそう。


近くまで上ってみると
あたりは草が茂っていた。
忠祟は陣屋を出立するとき、
残った藩士にこの陣屋を焼くよう命じたそうな。


陣屋跡には石碑が二つ建てられていた。


陣屋跡の石碑1


陣屋跡の石碑2


陣屋を下りた裾野のある長楽寺の庭園。
幕末、江戸の動乱を避けて
林氏を頼った万里小路局(までのこうじのつぼね)が
屋敷を構えた場所。

このほかに林氏にちなんだ献兎記念碑というのがあるらしい。
木更津駅からはちょっと遠いのでパスした。

佐貫町・佐貫藩陣屋付近
幕末の藩主→阿部正恒
佐貫築城は室町時代のことと言われている。宝永七年(1710)阿部正鎮(まさたね)が1万6千石で入国し、阿部氏支配で幕末まで続いた。

慶応四年(1866)藩論は佐幕に決し木更津に終結した旧幕府脱走軍に藩士数十名が参加。しかし官軍の猛攻撃に佐貫藩士も房総に敗走する。閏四月、佐貫城に迫った官軍によって、時の藩主・正恒(まさつね)は城明渡しと武器弾薬の引渡しを命じられ、六月、家臣と共に勝隆寺への謹慎を命じられるが十月許されて廃藩置県を迎えるに至った。


JR佐貫町駅から10分ばかりで染川を渡る。
群生しているのは「牛革草」。


天保五年(1834)創業の宮醤油店。
現在の建物は明治二十五年のもの。
伊勢出身の伊勢又という呉服屋さんが本家で
分家してお醤油屋さんを始めた。
御殿様について伊勢からこの地にやってきたそうな。


瑞龍山三宝寺。
佐貫の歴史に大きく関った勝隆寺と三宝寺が合併した寺。


三宝寺の本堂に官軍が駐屯した。
ここで藩を救うために2名の勝山藩士が切腹した。


本堂左手に佇む勝山藩士の碑。
お墓は木に押されてちょっと危うい状態だった。


佐貫城大手門跡。
慶応四年四月二十八日、この場所で
恭順を唱えた江戸詰家老・相場助右衛門が
佐幕派の若い藩士に鉄砲で暗殺された。
助右衛門は藩主正恒の信任厚く、
彼の帰城に不安を抱いた佐幕派の藩士は
二十余名で助右衛門を襲った。
彼の墓は城跡近くの安楽寺にある。
佐貫城跡は草叢になっていて、城郭を巡るのは困難。

(2)は作成中です〜。

関東編トップへ戻る  次へ