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茨城郡 長岡 楠公社


田中光顕の著書「坂下義挙録」によれば、長岡は実に天狗党諸士の頓集した処で、当時、大関和七郎、森五六郎、杉山彌一郎、廣岡子之次郎、山口辰之助、鯉沼伊織(のちの香川敬三)等をはじめ数百人の激派が勅状を死守せんと、駅頭に「大日本至大至誠楠公招魂表」と大書した木標を建て、夜は篝火を焚き、江戸と水戸の交通を厳重に監視していた処とか。
水戸藩主慶篤公は幕府の強制に余儀なくされ、何度か勅諚を返納しようと試みたが、途中の難関を慮り為す事を得なかった。幕府の弾圧に激成させられた水戸浪士は、勤王を誓ってこの地に髻を埋めたといいます。
鴨さんや新見さんたちもこの地に髻を埋めたかも。


楠公社の入り口。


石碑は「大日本至大至忠楠公」になってます。


上段左から二人目に杉山彌一郎の名前が見えます。
中段右端に山口辰之助の名前も。


高橋多一郎が髻を地に埋め、
木票を立てて一首を認めて楠公の古を偲んだ。
これは田中光顕の揮毫による記念碑です。

『菊水の清き流れを長岡に
酌みて御國の塵を掃はむ』
高橋多一郎

(高橋多一郎は水戸藩主徳川慶篤の奥祐筆頭取でした)


こちらは前列右から4人目に田中光顕が写っている毛塚。
昭和三年、石碑建立当時の撮影。


こちらは平成七年に建てられたばかりのようです。


茨城百景の碑

次はいよいよ鴨さんの実家、玉造町の芹澤城へ。

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