下村さんのお宅で伺ったお話


下村家では三代神官をやっていて、二代目か行方不明になっており、その人が尊皇攘夷の活動に関わっていたらしい。おそらく二代目は子供があって、家族に害が及ばぬよう、離婚して下村家を出たのではないか、とのこと。

先代のご主人が敦賀方面に聞いてみれば何かわかるかも知れないと言っていたので、調べて来ようと思っていた。そこへある歴史研究家の人からおとなりの下村さんのところに電話があって、「敦賀の役所から紹介されたのだが、そちらに下村継次という人がいないか」という問い合せがあった。

敦賀は天狗党が処刑された地だが、役所の調べでは敦賀の松原神社の小浜藩の記録ほか水戸藩と加賀藩の記録を見てみたが、下村継次という名前は見つけられませんでした、という手紙がきた。

水戸藩の記録に依れば、十一月十八日に朝廷から大赦の令が出て、水戸藩が内部調査をする、そして「引き回しの上断罪に処すところを大赦に付き牢屋敷内にて断罪梟首のこと」という達しがある。しかしそれではまだキツイというので慶喜の家来、吉成勇太郎と武田耕雲斎の働きによって保留となり、十二月十五日に幕府から「水戸藩は烈公の意思を継ぐように」という達しがあり、水戸藩では斉昭公の意思を継ぐアピールとして、浪士達を釈放した。

このとき下村継次と一緒に釈放された人物に野口正安がいた。下村継次はこの野口グループの幹部だったらしい。下村継次は野口とともに長岡で活動していて、彼の故郷である玉造や潮来で資金調達活動をしていて、文久元年二月二十四日に指名手配され、二十八日に宿に泊まっている所で捕まった。

下村家は磯原の天姫神社の神主をしていて、野口正安の家が近かったそうな。

松井に下村家が移ってきたのはそれ程昔のことではなくて、関西から来たらしい。乱を遁れて松井を治めるように言われて移って来たらしい。初代は位の高い御寺さんだったそうな。
数代目、下村義次のころは位の高い神官で裕斎という名前を持っていた。二代目は行方不明、三代目常親といって継次の実子、やはり位の高い神官だったが、若くして死んでしまったので、現在の当主の方が常親の妻であるむめさんのところに養子に来た。亡くなった常親さんのお墓には誰だかわからないが銀盤に写したとても綺麗な女性の写真が飾ってあった。(むめさんの写真かもしれない)
下村さんの家では昔氏神様の社が家の正面にあったので、普通氏神様は家の後ろにあるものなのに何故正面にあるのか聞いてみたところ、常親さんの代に家で寺子屋をやっていて、寺子が御参りするように氏神様を家の正面に移したのだとのこと。今は家の後ろに移してある。

十石堀のこと…昔、おとなりの沼田さんといううちで藩から堀を作るように命令されて下村さんの家で見張り番をしたこともあるらしい。堀を作ったときに沼田家で五石、下村家で五石褒賞が出たが、下村家では土地が広かったので十石みんな沼田さんにあげたそうな。十石堀の史料は十年くらい昔に燃えてしまったらしい。

(文:藤誠)

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